落とし込みブログ
~落とし込みやらないときはこんな日々~
ネット発信とはナンだ
ブログ、ホームページは 頻繁な更新がないと ビジターはみるみる減っていく。

たくさん見て欲しいと思っているサイト運営者の殆どは スポンサーやアフィリエイト目的

あるいは、販売、詐欺・犯罪目的だろう。



しかしながら、それ以外に自分の日常・趣味を発信しているサイトの多いこと。

自分もその部類に入るかな。


何故だ?

何のもうけもないのに。

誰が見ているか、あるいは見ていないかも分からないのに。

日記なら発信の必要はなく日記帳にでも書けばいいはず。



不特定多数(少数?)の「相手」を意識して書くことに・発信することに何か意味でもあるのだろうか。



自分のアイデンティティーを見失わない手段であったり、

それを役立てたい気持ちであったり

ただ、独り言を誰かに聞いてもらっているというメンタルヘルス的なものであったり。



どれにしても ほぼ1~2年で力尽き、または 飽きて消えていくものがほとんど。



消えないものは 作成者にどれだけそれをやっていることに熱意があるかということ。

熱意だけではなく、どれだけ楽しみや中身があるかということ
(文章は語彙の少ない稚拙なものでありますが)

そのことが、たとえ不特定少数であっても相手意識をもつことで、さらにアイデンティティーを強めていく

つまりは 「自分磨き」 


わたしの場合は それにやや近い感じかな。




質のいいダイヤモンドの原石は 磨けばきれいに輝く

しかし、駄石であっても丹念にカットして丹念に磨けば それなりに輝ける

その僅かな輝きでも 「一隅を照らす」 ことぐらいできるだろう。


また埋もれてしまっても土の中で
割れてしまっても 一片だけでも

輝きは失われないだろうと。


自分磨きは 息が消えるまで 

自分なりに
だナ
魂の旅人
長いので疲れるかも
ブログは手軽な備忘録でもある。
こんなことを思い出したので記録しおくことにした。



考え事をしていたら、ふと思いだしたこと。
何の本だったか、人は「魂の旅」をしているというようなことを読んだ記憶がある。

生まれながらにして、いや、生まれる以前から自分に課題を課せて、「再び」新たな生を自ら選ぶのだと。
(「再び」とは、いわゆる輪廻・転生を意味する。)

違う時代に違う人として何度も生まれ、様々な課題を解決する過程で学びの体験を積むことで、魂は、より高次の存在と成長していくらしい。
生を受けている間に起こるすべての物事は、生を受ける前の「魂の世界」で自分自身が課題として念入りに織り込んだものだという。
ただ、生を受けてからはそのことは忘れているらしい。
生まれてしばらくは覚えていることもあるらしいが。


たとえば、

山伏となって生きる意味を自分に課せている魂は、生来、集団に和合せず、心の琴線に触れる目に見えない力や幽玄な世界やそれに関わる極少数の人との出会いや試練などに心が向く。

多くの人とのつながり生きる意味を課せている魂は、たくさんの人との出会いと共有の深まりに心が向く。

生きるということについて質素に暮らすことの中で悟りたいと計画した魂は、日々のその一瞬一瞬を精一杯生きる中で様々な感動に心を開くのかもしれない。


このようにそれぞれがその魂の状態によって低次元から高次元の課題をつくり、それを中心にどのように意味ある人生を送るかという修行を自らに課して自分自分を高めていく、それが「魂の旅」である。
というような。


僕がこのことに興味を持つということ自体が、意識はしていないが自分自分の課題に触れていることなのかもしれない。



魂が課したものがそれぞれ違うので、人は一人ひとり、ものの見方や感じ方、考え方が違う。
同じものを見ていても、同じ場所、同じ境遇に置かれても、一部分共感するものはあるかもしれないが完全に同化することはない。

それが、普通に考えれば、人の世界での面白さであり、苦々しさ・苦しさともなる。
自分と同じように考えよ・生きよと押しつけること自体が根底から間違いであることに気づかない人は多い。
知らず知らずのうちにそうやっている自分に気づかない人も多い。(僕もそういうときがあるなぁ。)
それぞれが独自に持って生まれた課題に関わるものへ、より敏感に感じ・見て、考え・価値づけるようになっているに関わらず。


小手先の世渡りのうまさに自分自身で酔っている日々を送ったり、金儲けや出世や世や歴史に名を刻むことなどこそが「成功」であると勘違いしたり。(そもそも、歴史といっても、1万年後にその名を覚えているものはいるだろうか。)
そのために、相手を蹴落としたり、苦痛な日々になったり、決別したり、自ら生を絶ったりということもある。


すべての魂は善なる存在であるが、人生を送る過程でそれを忘れてしまっているときも多いらしい。
途中でやり直すことに気がつかず、そのような惑いのまま人生を過ごした人は、、魂となったときにまた別な生を受ける前にその反省をもとに新たな課題を入念に織り込み再びこの世で学び・修行を行うという。

そして、前世で出会った人々とは、また別な関係で出会うという。
「袖すりあわすも、縁のうち。縁はつながっている。」



自分は自分以外の人とは決定的に個別的存在であるということ。
楽しさも喜びも苦しさもつらさも悲しさも、すべてが自分がしくんだことであるということ。


人からどう見られるか、思われるかを気にして行動するのではなく、利己にとらわれない価値あることと信じて心の底からそれを偽りなく誠意をもって為していこうとしているか。
そのとき自分が人に注ぐものは何であればいいのか。
それが自分が生きる指針ではないかと思う。


間違い・失敗・不合格・一見成功にみえること・歓喜・怒り・相性・損得の感情・大病・貧困・不遇…。
それらは魂の状態での自分自身が学びの場として計画した意味あることである。
人としての自分がそれをどう受け止めてどのように整えて、前に進んでいくか、生きていくか。
また、それが今生の貴重な経験であり、目の前のこと・あるいは目指すものがあればそれに向かって精一杯挑戦していく過程こそが自分が生きる意味だと考えたら。
結構、光ある人生を歩むことができるのではないだろうか。

クライマーの生き方
先日テレビで登山家のドキュメンタリーがあっていたので暇つぶしに見ていたら、思わずのめり込んでしまった。

クライマー・登山家、特に断崖絶壁しかも過酷な冬の山に挑む人たちの生き方は尋常ではないと思った。

凍傷で指を無くしてもトレーニングを繰り返し、さらにより難しい山へ挑戦しようとする。

死を覚悟しなおその危険な山に挑もうとするその姿は何かに取り憑かれているとしか思えなかった。


そのテレビで谷川岳は遭難死者数が…と語りが言ったとき、山のことを何にも知らない僕は50名ぐらいだろうか。と、思ったが、その後に、昭和6年からの統計でも死者900人を大幅に越えている世界ワーストトップというのを聞いたとき、唖然とした。

テレビは廣川 健太郎という有名な登山家(と言っていいのさえ分からないが)が、谷川岳で最も難しいと言われている第三スラブというコースに挑むシーンだった。
彼はサラリーマンで土日に主に登山するようだった。
(もちろん、海外は別だろう)

綿密に統計を分析し、下見を重ね、雪崩の危険性を予測してアタックし成功した。
しかし、その後、彼はこう言った。

「状況判断も大切だが、運がよかった。」
僕は、本当に運がよかったとしか思えなかった。
100%雪崩は予測できないと思ったから。


それほどまで危険なその行為に突き進ませるものは何なのか。




僕は知りたかった。

しかし、一口では言えないだろう。

なぜ、釣りをするのですか?

と聞かれても、釣りをしたことの無い人、釣りを知らない人に説明することさえ難しくもどかしい。
しかし、釣りは命を覚悟でするものではない。


命を落としても悔いはないという人さえいるこの山の世界。
いったい何なんだろう。


廣川 健太郎氏が、もどかしそうに言った言葉に何となくヒントのようなものを感じた。


「…自分を試す…それをやらないことは逃げていることでゆるされない…」



この気持ちを知りたくて他を調べていたら、登山家 山野井泰史氏の動画があった。

見てみた。

彼、彼と同じ登山家の妻も異口同音に同じようなことを言っていた。



「能力を最大限に使って、限界までやった。」


体力・技術・知力を駆使して険しい自然(山)に挑み克服することで、生まれて来た人間として自分というものの限界に挑戦する。

そのようなことなのだろうか。

僕にはそのくらいしか分からない。
すざましい生き方があるのだとしか。

今日はこれまで。
ひ と り ご と
今日は、前日の釣りの疲れが、だんだんと出てきて、今、体がこわり、頭がガンガン。

朝は、非常に寝起きがよかったのに、時間が経つにつれ、こんな状態。

体の弱りは、音を立てずに誰にでも訪れてくるものだが。


音を立てずに…

そうそう


昨日、菜の花が咲いていた。

自然は季節の変わりを敏感に感じ取っているのだな。


時の過ぎていくはやさに、ついて行けない自分がいる。

この頃のこと
5月6日、今日はいい天気だ。
久しぶりに9時頃まで布団に入っていた。

最近、夜に何回も目が覚める。
理由は分かっている。

1つは、歳でトイレが近くなってしまっている。
ひどいときは夜中に3回もトイレに起きる。これはしょうがない。


2つ目は、呼吸だ。
僕はいびきをかく。いわゆる無呼吸症候群というやつで、専門医曰く、あごの形が子どものように小さくて少し太ってきただけで喉が狭まり空気の行き来が悪くなって、口を大きく開けていびきとなる。

喉が詰まってしょっちゅう呼吸が止まるので、その間水中にもぐっているようなものだから、長く寝れば寝るほど体は酸素不足となる。いくら寝ても起きると頭がガンガン。舌は干しアワビのようにカチカチカラカラになり、いびきで喉が痛い。眠っていて眠ってないようなものだから昼は眠くてたまらなかった。

それを解消するために、10年ほど前、専門医から当時8万円(今は保険がきくようになり2万円ぐらい)もするマウスピースを作ってもらった。それを付けてあごを前に出して喉の通りをよくする。これが劇的に朝の目覚めをよくしたのだが。

歯の治療をすると、歯並びも変わり、マウスピースが合わなくなる。ときどき作り替えなくてはいけないものの、マウスピースを作るために、八女に開業したその医者のところまで何回か行かないとならないので、最低でも2万円と高いし、面倒だしで、行きしぶっている。寝ている間にその合わないマウスピースが歯からはずれて、効果が半減している。また、いびきで不眠状態というわけだ。

3つ目が、一番深刻なんだけど、これは書かないでおこう。このことでへんな夢ばかり見る。いい夢ではない。

こいのぼり

今の世の中、こんなことで悩んでいるより、もっと深刻きわまりない境遇の人がいっぱいいるんだから。
今のところ、おまんまを3度食べられて、釣りにも行けるし、家族も大病・大事故にも遭わず何とか元気に過ごしているし。

こどもの日を過ぎた振替休日、暖かい陽射しを窓の外に見ながら、そんなことをつれづれに書く今があることをありがたく思おう。南無。

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