
九州の好きなところと言われて真っ先に思い浮かぶのが南阿蘇、高森。
阿蘇五岳とすそに広がる風景、あちらこちらに湧く豊かな湧水は何度訪れても飽きない。
29日、仕事を早めにふけて夫婦で小旅行。
高速道路で福岡から宿泊する休暇村南阿蘇まで2時間あまりで別世界へ
出発から雨が降っていたが、到着頃には上がって根子岳が雲間から顔を出して
迎えてくれた。

夏の濃い緑と広がる田園、360度奇妙な形でうねる山やま。
何度見てもいいなぁ
ここの休暇村はまず安い!今回のプランは8000円コース、
これから2000円割引券を使って格安。
夕食はバイキング。と言っても最近のバイキングは侮れない。

<少しずつとってきては食べまくる
ちなみにお酒は妻が飲む>
根子岳が一望できる露天のすべすべ温泉に何回も入り、
次の日は阿蘇1周ドライブ。
高森湧水トンネル公園てのがあったので行ってみる。
なんでも宮崎までつなげる鉄道のトンネルをつくっていたら
地下水脈をぶち抜いてしまったらしく
いきなり水が噴き出して周りの湧水が枯れたというので
慌ててふさぎ、頓挫したあとを、公園にしたという。

ひんやりしたトンネルは中央の水路にとうとうと水が流れて
しばし歩いてふさいだ場所まで行く。

七夕飾りや水玉が不思議な動きをする仕掛け噴水ウォーターパールなど
ちょいと楽しむ。


次、白川水源。
南阿蘇に来たら必ず寄る場所。

透明の水が毎分60トンわき出て川となる光景は神を意識してしまう。
一応、神社に詣って、ちゃっかりと持ってきたペットボトルに
無色無臭のつめたい水を注ぎ込み、
次いこ。
前日に目を付けていた温泉に入る。

阿蘇五岳が目前に広がる露天風呂はもう言うことない。

その後もあちらこちら足を止め止め阿蘇を1周して帰路に。
海もいいが、ホッとするのは山里だなぁ。
また、紅葉の秋に来ようと約束してしまった。
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<トラックから船へ移動作業>
8月24日、アラカブ(カサゴ)の稚魚放流でした。

<アラカブ稚魚 で~っっかくなれよ>
今回は福岡県釣団体協議会様のご厚意で放流できました。
九州磯釣連盟福岡支部の皆さんも一緒に、沖防仲間とともに
一文字波止、テトラへ3100尾の放流です。

<はやと丸でテトラ沖へ放流>
最近はクロダイの稚魚が飼育されなくなり、タイやアラカブが主です。
でも、将来 タイやアラカブが博多湾、特に沖防で釣れるように
なるかもしれないと思うと嬉しいではありませんか。
アラカブの刺身、煮付け どう料理しても美味いですよ~!


バブル崩壊とともに落とし込み最盛期も過ぎ、40歳台。
仕事でも一番ハードで重い時期。
それでも遠征は続いた。取り憑かれたように。
クレイジーの上にウルトラがつく。
エ?昭和のニオイがするって?
40歳はじめの頃はインターネットはまだ大衆にはなかった。
ケイタイも、ようやく500g以上はあるでっかいセルラーを使い始めた。
博多沖防からは次第に足が遠のき、
真冬でも釣れる場所は? 特大のチヌは?
と追い求めること10年あまりを過ごした。

<長崎や佐世保 よくかよった>
そうするうちに、
釣れないときどうやって1枚を釣るか、そのことの価値が分かってきた。
20cmでもいい、狙ったクロダイを釣り上げるか全く釣れないかの差は無限に大きいのだということ。
開口 健は本の一節でこう語っている。
「メダカも1匹、マグロもは1匹、1匹は1匹。1匹釣るのと百匹釣るのに大差はないが、1匹も釣れないのと1匹釣るのとは大変差がある…1匹は1匹なのである。そうさ。女は女、なのである。」
女は女…というくだりで 「あぁ! あははぁ。」
と、すとんと落ちるのはなぜか。
そりゃ、大きいのを釣るに越したことはない。
そう願っている。
しかし、釣れないとき、
たとえ小さくても「どのようにして」その狙った魚を釣るか、出会うか。
それが真の釣り師、フィッシャーマンだと。
--- そして
--- また
沖防に戻って来た。
すでに時代は変わり、知りたい釣り方や釣り場情報、状態までも
ケイタイやネットで苦労せずにリアルタイムで取り入れられる。
沖防でもカラス貝、岩ガニは当たり前。
チゴカニはもうだれも使わない。売ってもいない。
釣れるのは殆どがチヌと呼べる大きさで、落とし込み釣りを始めたばかりの人が50cmオーバーを釣ることだってできるようになったんだから。
落とし込み釣りは時代の変化と情報化、タックルの進化とともに変わった。

<専用の竿、リール、道具>
博多の海も埋め立てで生態系が変わった。
護岸の立ち入り禁止区域が増え釣り場も狭まった。
釣り人の指向もルアー主体に変わった。
しかし、50歳を越えて戻って来た博多の海には、
800円!? それなら500円、…それなら…と
初期の波止渡し船との料金戦争も低価格とサービスで勝ち残った「はやと丸」と「香月釣具」が
何事もなかったように釣り人を沖防に渡していた。

<高速渡船、ニューはやと丸
船長がこれから先も長く続けてくれることを祈る>
釣りクラブの垣根を越えて博多の落とし込み釣り師はみんな仲間となった。
餌や釣り方の隠し事はまず無い。
どこでどんな風にしたら釣れたか、釣れなかったか。
互いに教え合う中で、それでも、より釣れるよう切磋琢磨をする楽しみが今はあると思う。

<博多湾の落とし込み仲間>
ぼろぼろになった体をだましだまし修理しぃしぃ、
今、60歳になった僕は再び原点の博多沖防に向かう。
すでに髪が白くなった田渕船長の「はやと丸」に乗って、
「どうしたら釣れるのか」と。
終
仕事でも一番ハードで重い時期。
それでも遠征は続いた。取り憑かれたように。
クレイジーの上にウルトラがつく。
エ?昭和のニオイがするって?
40歳はじめの頃はインターネットはまだ大衆にはなかった。
ケイタイも、ようやく500g以上はあるでっかいセルラーを使い始めた。
博多沖防からは次第に足が遠のき、
真冬でも釣れる場所は? 特大のチヌは?
と追い求めること10年あまりを過ごした。

<長崎や佐世保 よくかよった>
そうするうちに、
釣れないときどうやって1枚を釣るか、そのことの価値が分かってきた。
20cmでもいい、狙ったクロダイを釣り上げるか全く釣れないかの差は無限に大きいのだということ。
開口 健は本の一節でこう語っている。
「メダカも1匹、マグロもは1匹、1匹は1匹。1匹釣るのと百匹釣るのに大差はないが、1匹も釣れないのと1匹釣るのとは大変差がある…1匹は1匹なのである。そうさ。女は女、なのである。」
女は女…というくだりで 「あぁ! あははぁ。」
と、すとんと落ちるのはなぜか。
そりゃ、大きいのを釣るに越したことはない。
そう願っている。
しかし、釣れないとき、
たとえ小さくても「どのようにして」その狙った魚を釣るか、出会うか。
それが真の釣り師、フィッシャーマンだと。
--- そして
--- また
沖防に戻って来た。
すでに時代は変わり、知りたい釣り方や釣り場情報、状態までも
ケイタイやネットで苦労せずにリアルタイムで取り入れられる。
沖防でもカラス貝、岩ガニは当たり前。
チゴカニはもうだれも使わない。売ってもいない。
釣れるのは殆どがチヌと呼べる大きさで、落とし込み釣りを始めたばかりの人が50cmオーバーを釣ることだってできるようになったんだから。
落とし込み釣りは時代の変化と情報化、タックルの進化とともに変わった。

<専用の竿、リール、道具>
博多の海も埋め立てで生態系が変わった。
護岸の立ち入り禁止区域が増え釣り場も狭まった。
釣り人の指向もルアー主体に変わった。
しかし、50歳を越えて戻って来た博多の海には、
800円!? それなら500円、…それなら…と
初期の波止渡し船との料金戦争も低価格とサービスで勝ち残った「はやと丸」と「香月釣具」が
何事もなかったように釣り人を沖防に渡していた。

<高速渡船、ニューはやと丸
船長がこれから先も長く続けてくれることを祈る>
釣りクラブの垣根を越えて博多の落とし込み釣り師はみんな仲間となった。
餌や釣り方の隠し事はまず無い。
どこでどんな風にしたら釣れたか、釣れなかったか。
互いに教え合う中で、それでも、より釣れるよう切磋琢磨をする楽しみが今はあると思う。

<博多湾の落とし込み仲間>
ぼろぼろになった体をだましだまし修理しぃしぃ、
今、60歳になった僕は再び原点の博多沖防に向かう。
すでに髪が白くなった田渕船長の「はやと丸」に乗って、
「どうしたら釣れるのか」と。
終


盆は例年の帰省もせず、釣りにも行かず、妻と二人で息子が一時的に暮らしてなにやら活動している長野県の栄村を目指してその周辺を小旅行。
羽田から上越新幹線で途中下車、
途中、娘と婿殿と合流。
まずは、世界遺産となった富岡製糸場へ
スギの巨木の骨組みと洋式煉瓦をしっくいで貼った外壁

機械はすごい

手作業だとこんなもの

これは 最後にまゆから出てくるのは釣りでおなじみのサナギ

一気に新潟の湯沢温泉。
息子も仕事が終わって合流。
ホテルも温泉も景色も最高!


足を伸ばしていろいろ見学、森林浴

息子のいる栄村へ
新潟県との県境の村
3年前
緑のふるさと協力隊として1年間そこで活動していた息子は
3月11日、最後の活動総括をするために東京に行って東北地震を受け、
次の日の栄村地震の報を知り、福岡に帰る予定をキャンセルして
栄村に向かい、3月末まで役場の廊下などで寝泊まりして被災者と過ごした。
そして今年、国の復興事業で再び栄村へ行った。
どんな所なのか、どんな生活をしているのか見てみたい親心。
丁度、盆で各集落がお祭りをしていた一つに参加。
どこに行ってもいろいろな人から声をかけられている息子に少し安心。

元はきれいな渓谷。地震・台風の多重災害が繰り返す

被災支援で復旧した棚田

秘境秋山郷も栄村
温泉からの風景

息子が住んでいる古家にも泊まり
見かねて大掃除。
旅館の イワナなど郷土料理も美味かった。
冬は雪が3mを越えて積もり、1階を覆うという。
豪雪対応の家々をあとに帰りのバスに乗る。
夫婦2人旅。温泉三昧。
気ままにゆっくりと過ごしたいい4日間だった。

羽田から上越新幹線で途中下車、
途中、娘と婿殿と合流。
まずは、世界遺産となった富岡製糸場へ
スギの巨木の骨組みと洋式煉瓦をしっくいで貼った外壁

機械はすごい

手作業だとこんなもの

これは 最後にまゆから出てくるのは釣りでおなじみのサナギ

一気に新潟の湯沢温泉。
息子も仕事が終わって合流。
ホテルも温泉も景色も最高!


足を伸ばしていろいろ見学、森林浴

息子のいる栄村へ
新潟県との県境の村
3年前
緑のふるさと協力隊として1年間そこで活動していた息子は
3月11日、最後の活動総括をするために東京に行って東北地震を受け、
次の日の栄村地震の報を知り、福岡に帰る予定をキャンセルして
栄村に向かい、3月末まで役場の廊下などで寝泊まりして被災者と過ごした。
そして今年、国の復興事業で再び栄村へ行った。
どんな所なのか、どんな生活をしているのか見てみたい親心。
丁度、盆で各集落がお祭りをしていた一つに参加。
どこに行ってもいろいろな人から声をかけられている息子に少し安心。

元はきれいな渓谷。地震・台風の多重災害が繰り返す

被災支援で復旧した棚田

秘境秋山郷も栄村
温泉からの風景

息子が住んでいる古家にも泊まり
見かねて大掃除。
旅館の イワナなど郷土料理も美味かった。
冬は雪が3mを越えて積もり、1階を覆うという。
豪雪対応の家々をあとに帰りのバスに乗る。
夫婦2人旅。温泉三昧。
気ままにゆっくりと過ごしたいい4日間だった。



当時は、「落とし込み釣り」という言葉は まだ一般的ではなかった。
まぁ、浮子も重めのナマリも付けず潮に餌を乗せてのフワフワの釣り方だから「フカセ」など と言っていたと思う。
「フカセ」釣りの中のピンポイントを狙うために少し重めのガン玉を付けるメソッドを「落とし込み釣り」と言っていたが、それがメーカーの統一用語になったように思われる。
ある日、野元さんがメーカーの落とし込み竿のプロトタイプを見せてくれる。
「これを今、作ってるんですよ。振ってみてください。」
自前の改造竿しか知らなかった僕は、3.6mの専用竿にカルチャーショックを受けた。
落とし込み専用のタモはなかったなあ。
普通の磯タモ柄にロープ結びつけて佐々木小次郎みたいに背中にからう。
その後、専用ではないが小継タモ柄が流行り、腰に差す。
「全国大会があるから出てみらんですか?」
野元さんからの誘いを、まだそんなたいそうな技術も持ってないからと遠慮した。
が、そのときに出場された現松下名誉会長や上田会長さんたちで創った波止フカセ研究会(AMA)に誘われた。
やはり1人でアーダ、コーダとやっていたときとは格段に釣りの幅が広がっていった。

<波止フカセ研究会 (All Method Association)
第1回大会 1989年>
そうして落とし込み釣りの時代、最盛期がいきなりはじける。
世はバブルの時代だった。
各メーカーは次々と落とし込み製品を開発し、我々も新製品に飛びついていった。
あのプロト竿は市販品になり、専用リール・発泡目印・鈎・道糸・ガン玉、小物。専用タモももちろん出た。
雑誌も落とし込み釣りを頻繁に掲載し盛り上げた。
中でも力を入れていたR社(現在、釣り部門はなくなった)の全国大会は落とし込み師の目標や励みともなった。
全国大会と仕事の日程が殆ど合わず、たとえ出場可能になっても…と思うと予選参加もはばかったが、一度は出たいと思ってはいて、のち一度だけ出ることができた。
天候不順で時間切り下げ、総キーパー匹数 2枚のみというきびしさだったが、収穫はあった。

<四日市沖堤で 森尾さんを中に
大阪チーム山本太郎氏とワンツーショット 1993年>
沖防以外の釣り場にも行くようになった。
高速道路も殆ど整備されていない時代。
今や近場となった場所に何時間もかけて数台の車でワイワイと出かけた。
そこにはまた別なステージが広がっていた。
初めて40cmオーバーを釣った。
沖防では何年もメイタばかりだったのに
遠征地では簡単に40弱の方が少なかった。

<大分で初40cm 1989年>
偶然に50cmオーバーも釣れた。

< 初年無し 大分1990年>
面白くて、あるときは1人で、あるときは連れ立って遠征した。
インターネットもナビもケイタイもない時代。
「釣れるらしいよ。」
情報は口伝いのみ。
または道路地図を見ながら車を走らせ、めくらめっぽうあっちこっちと波止を探し回った。
沖に良さそうな波止を見つけると漁師さんと交渉する。
現役を退いて船の近くに取りあえずいるみたいなジイさま…いたいた。
「こんにちはぁ。」(これ大事)
「おいさん、あそこに波止があるよね。渡りたいんですけどね。おいさん渡してくれんですか? 1000円でどうやろかねぇ。」
「あ~ん、1000円? #%*♂~?」
「1500円!」
「ん~、よかよ。」
「よっしゃ!!」
1000円というところがミソ。
今後・後進のためにもできるだけ安く交渉すべし。
さて行ってみると、
「何やぁ~、この浅さは!」
「タモが届かんやないかぁ~。」
釣りにならない場所も多かった。
まだまだ釣技も未熟なのが原因でもあったが、それでも様々な場所にチャレンジしていった。

<宮崎県:家族旅行で泊まった
民宿近くの漁港で55cm 1993年>
博多沖防の多様な構造の波止だけでも十分な力量がつくだろう。
ただ、遠征などで、沖防にない波止形状、高さ、潮、うねり、底の変化、チヌの行動などの経験を重ねると、さらに、どんな条件にも対応する柔軟で素早い判断力とメソッドが高まるように思う。
30歳前半からの最も元気のいい盛期をこうやって過ごした。
今思うと、クレイジーな時期でもあり、夢と希望に泡だった時代でもあった。
続く
まぁ、浮子も重めのナマリも付けず潮に餌を乗せてのフワフワの釣り方だから「フカセ」など と言っていたと思う。
「フカセ」釣りの中のピンポイントを狙うために少し重めのガン玉を付けるメソッドを「落とし込み釣り」と言っていたが、それがメーカーの統一用語になったように思われる。
ある日、野元さんがメーカーの落とし込み竿のプロトタイプを見せてくれる。
「これを今、作ってるんですよ。振ってみてください。」
自前の改造竿しか知らなかった僕は、3.6mの専用竿にカルチャーショックを受けた。
落とし込み専用のタモはなかったなあ。
普通の磯タモ柄にロープ結びつけて佐々木小次郎みたいに背中にからう。
その後、専用ではないが小継タモ柄が流行り、腰に差す。
「全国大会があるから出てみらんですか?」
野元さんからの誘いを、まだそんなたいそうな技術も持ってないからと遠慮した。
が、そのときに出場された現松下名誉会長や上田会長さんたちで創った波止フカセ研究会(AMA)に誘われた。
やはり1人でアーダ、コーダとやっていたときとは格段に釣りの幅が広がっていった。

<波止フカセ研究会 (All Method Association)
第1回大会 1989年>
そうして落とし込み釣りの時代、最盛期がいきなりはじける。
世はバブルの時代だった。
各メーカーは次々と落とし込み製品を開発し、我々も新製品に飛びついていった。
あのプロト竿は市販品になり、専用リール・発泡目印・鈎・道糸・ガン玉、小物。専用タモももちろん出た。
雑誌も落とし込み釣りを頻繁に掲載し盛り上げた。
中でも力を入れていたR社(現在、釣り部門はなくなった)の全国大会は落とし込み師の目標や励みともなった。
全国大会と仕事の日程が殆ど合わず、たとえ出場可能になっても…と思うと予選参加もはばかったが、一度は出たいと思ってはいて、のち一度だけ出ることができた。
天候不順で時間切り下げ、総キーパー匹数 2枚のみというきびしさだったが、収穫はあった。

<四日市沖堤で 森尾さんを中に
大阪チーム山本太郎氏とワンツーショット 1993年>
沖防以外の釣り場にも行くようになった。
高速道路も殆ど整備されていない時代。
今や近場となった場所に何時間もかけて数台の車でワイワイと出かけた。
そこにはまた別なステージが広がっていた。
初めて40cmオーバーを釣った。
沖防では何年もメイタばかりだったのに
遠征地では簡単に40弱の方が少なかった。

<大分で初40cm 1989年>
偶然に50cmオーバーも釣れた。

< 初年無し 大分1990年>
面白くて、あるときは1人で、あるときは連れ立って遠征した。
インターネットもナビもケイタイもない時代。
「釣れるらしいよ。」
情報は口伝いのみ。
または道路地図を見ながら車を走らせ、めくらめっぽうあっちこっちと波止を探し回った。
沖に良さそうな波止を見つけると漁師さんと交渉する。
現役を退いて船の近くに取りあえずいるみたいなジイさま…いたいた。
「こんにちはぁ。」(これ大事)
「おいさん、あそこに波止があるよね。渡りたいんですけどね。おいさん渡してくれんですか? 1000円でどうやろかねぇ。」
「あ~ん、1000円? #%*♂~?」
「1500円!」
「ん~、よかよ。」
「よっしゃ!!」
1000円というところがミソ。
今後・後進のためにもできるだけ安く交渉すべし。
さて行ってみると、
「何やぁ~、この浅さは!」
「タモが届かんやないかぁ~。」
釣りにならない場所も多かった。
まだまだ釣技も未熟なのが原因でもあったが、それでも様々な場所にチャレンジしていった。

<宮崎県:家族旅行で泊まった
民宿近くの漁港で55cm 1993年>
博多沖防の多様な構造の波止だけでも十分な力量がつくだろう。
ただ、遠征などで、沖防にない波止形状、高さ、潮、うねり、底の変化、チヌの行動などの経験を重ねると、さらに、どんな条件にも対応する柔軟で素早い判断力とメソッドが高まるように思う。
30歳前半からの最も元気のいい盛期をこうやって過ごした。
今思うと、クレイジーな時期でもあり、夢と希望に泡だった時代でもあった。
続く
