

以前、掲載した根性の木
しばらくして、そこにいくと

切られていた。
いつかは切られるか自重によって折れるかだったろう。
彼(この木)の運命はそこに種がとんで芽吹いたときから寿命が決まっていた。
彼にはどうすることもできないことだった。
しかし、彼は根付き、伸び、葉を茂らせた。
ときにはちょうが舞い、虫がとまり、鳥が休んでさえずっただろう。
できるだけの生命力を発散させて彼は散ったのだった。
彼が存在した跡は何もない。
僕の記憶があるだけ。
こんなのをみて最近、ときどき思うんだな。
人の運命はそれぞれである程度決まっている。
どこで生まれたか、どのような環境で育ったかで、すでに生き方が変わってくる。
だから、自分ができたから他人もできるはずなど人の生き方と自分を比べて評価することはできないだろう。
生まれから現在までのすべてが違うし、その中で培った価値観も違う。
すべてが自分自身との問答にしか答えはないだろう、と。
ただ、生きていく中でふれあう人々との交流は人間にとって重要な価値を占めるね。
矛盾しているようだが、社会的存在としての人は他の人との心のふれあいや共感は心のよりどころとなってくる。
だからこそ、個別的存在と社会的存在の関係の中で人は悩む。
悩んでよりよい道筋を見つけたいと思う。
自分もそうやって生きてきたから。
でも、最後は一人の自分となる。
何人、何百人、何千人…、たとえ何億人の知人がいても、
時が流れればいつかは無となる存在
選ぶことができない運命の中で、今そこにいるという現実の中で、どう生きるかが自分だけにできる選択肢であり、この世に生まれてきた自分だけのチャレンジなのだろうな。

ま、こうは言っても、大体が、いきあたりばったりだけどね。
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